優秀賞|一般社団法人 日本私立歯科大学協会 私立歯科大学受験情報

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優秀賞

クレーム

小松 有美さん

歯医者が一番嫌い。でも一番行きたいのも歯医者だった。その理由は歯並びにあった。私は出っ歯なのだ。出っ歯だから、大笑いできない、キスもできない、大きな口で食べられない。そうやって自分を憎んでいた。矯正すればいいじゃないかと、世間は軽く言う。しかしわが家は母子家庭。とてもそんなことを言い出せなかった。だから早く社会に出たかった。お金を貯めて、矯正しようという夢をずっとずっと貯めていた。

そして時はきた。初めてのアルバイトで五万入った。これで惨めな自分を卒業できると近所の歯科医院に向かった。行く先々で口の中を見られた。実はこれが裸を見られる以上に恥ずかしかった。先生はきっと私の出っ歯に驚いているにちがいないと思った。それでも自分のため。そう思ってはいたものの、行くこと三軒。七十万、九十万、百二十万。提示された費用は想像を絶するものだった。財布の諭吉たちも目を回していたはずだ。たった五万で何ができるというのだ。私は絶望の淵に立たされた。お金がなければできないと門前払いをされた気分だった。

そんなときキャラメルで詰め物がとれる事件が起きた。急遽大学の近くの歯医者にかけ込んだ。口を開けるなり「キレイな歯ですね」と言われた。私は耳を疑った。いまだかつて歯を褒められたことなどなかったから。こんな出来の悪い私でも「先生」という立場の人に褒められると宙を舞うような気分になった。思わず前歯のことを打ち明けた。お金がないこと、自分の前歯が嫌いなこと。すると「じゃあ一緒に考えていきましょうか」と言った。「一緒に」。なんでもない言葉だが、私には妙に心に響いた。先生はひとつの治療法にこだわらなかった。検査をふまえて私の歯の状態をわかりやすく説明してくれた。今の歯並びで健康上の問題がないこと。噛み合わせにもなんら問題がないこと。歯の状態が良好であること。先生の言葉はすべて勇気に換わった。そして今回矯正はしないことになった。いや、違う。矯正はしないことにした。そう私が決めたのだ。あれだけ矯正をしたかった私。あれだけ歯並びに嫌悪感を抱いていた私なのに。その背景には、見た目より噛み合わせを大事にしてくれた先生の思いがあった。そして私の健康と、私の未来を考えてくれた先生への信頼感があった。

「一緒に考えよう」という言葉は患者にパワーを与える。言われるがままの治療ではなく、未来を自分で切り開くチャンスをくれる。私はいま、出っ歯だけど幸せだ。この歯を認めてくれる人がいたからだ。私の健康を応援してくれる人がいたからだ。先生のおかげで私は喋るのも楽しくなった。出っ歯を忘れて、美味しいものだって美味しく食べられる。あれからもう十五年経つが今度クレームを言いに行こうと思う。先生のせいで、太っちゃった、と。